じゃあ誰が君の部屋を掃除するんだ?」

 

残念!部屋が荒廃してきました。

溜まった洗濯物は大きな山となり、毎年、沢山の登山客が訪れています。

ゴミ箱はティッシュで溢れ、その溢れたティッシュの上に、また新しくティッシュが捨てられて(置かれて)いきます。

玄関に溜まった燃えるゴミは、毎朝僕を見送り、毎晩僕を出迎えます。

コンビニよりもたくさん、コンビニの袋が置いてあります。

冷蔵庫の中で腐ったバナナは、チョコバナナの真似をしています。

 

部屋が荒廃してきました。

 

僕の寝ている間に、おもちゃ達が部屋に散乱するペットボトルのゴミでボーリングをしています。これがトイストーリー5です。

僕の部屋に飛ぶWiFiは、多分どこのWiFiよりも汚れています。

僕の部屋とノルウェーの刑務所の画像を並べて、「どちらが刑務所でしょうか?」と聞くツイートがよくバズっています。

一日中閉まったままのカーテンは、この部屋で日々企てられている良からぬ事を、世間から秘匿します。

日夜付けっぱなしのパソコンが放つ、まだ名前の無い物質は、部屋の空気をより一層陰湿にし、僕の脳を確実に破壊していきます。

 

部屋が荒廃してきた。

 

気付いたら朝になっていた。カーテンの隙間から漏れる朝日に見つからぬよう、こそこそと毛布に包まる。その温みと、世界の気まずさとの隙間に身を潜め、僕はまた惰眠を貪った。

部屋の電気をあまりつけなくなった。照らされたくなかった。隠れたかった。人を殺したあとみたいに、世界から逃げ続けた。

 

荒廃してきた

 

なんのやる気も出ない。動けない。意味の無いことばかりを考える。人の目が怖い。外に出れない。いつもの病気がやってきた。

“馴染めないわけじゃないから 始末に負えない“という歌詞がある。その通りだと思った。

太宰治の「人間失格」をはじめて読んだときに、これは俺の話だ、と思った。でも、その感性はあまりにありふれ過ぎていて、普通にも当たり前にも、特別にも異端にもなれない、終わっている自分に気付いてしまった。

孤独だった。外に出れば人ならたくさんいる。学校に行けば友達はいる。それでも、一人で部屋に引きこもっていたとき以上に、孤独だった。理由は分からなかった。

部屋のエアコンが重労働に耐えかねて、カタカタと鳴った。

 

荒廃した。

 

いつ終わるのだろう、と思うことが増えた。そして、それは多分死ぬときまで終わらないだろう、とも思った。もしかすると、この諦観が、俺にとって唯一の光かもしれない。

最近、じゃがりこにハマっている。うまい。

オナホールを洗っているときに、水の具合でなんだかエロい音がなるので、調子に乗ってその音を出しまくっていたら、思いきり水が撥ねて服までびしょ濡れになった。本当に死んでやろうかと思った。

amazarashiを聴いていたら、「病んでるの?」と半笑いで聞かれた。お前みたいな奴をぶっ壊す為の音楽を聴いてるんだよ、と思った。

手を差し伸べてくれる人がいた。助けてくれようとする人がいた。今の俺には、手の取り方も、助かり方も、分からないけど、それでも、生きていこうと思った。

 

部屋が荒廃してきました。

 

掃除って、本当にめんどくさい。

でも、しなかったら、もっと部屋が汚くなって、汚くなるだけならまだいいけど、虫とか、おじさんとかが湧き始めたら、本当に、最悪だ。

あーもう本当に嫌だなー。掃除したくないなー。

とか考えながら横になっていると、天井の模様の一部がだんだん顔に見えてきて、その顔が僕に向かって言うわけですよ、「

 

 

 

自販機

 

駅前のカラオケ店と 理科室の前の廊下の

名前のない類似性が 五月のぬるい風に吹かれて  

部屋のカーテンを揺らしたとき 

それが僕のすべてだと思えた

 

教室から見下ろす校庭と 雨の日の体育館の天井の

その生活感の無さが 僕の生活を脅かし

部屋のカーテンを締め切ったとき

それが僕のすべてだと思えた

 

無声映画みたいだった はじまりも 終わりもない

無声映画みたいだった 次第に色も抜け落ちて

無声映画みたいだった 僕はただそれをみていて

無声映画みたいだった 僕は僕を傍観して

 

そのうちに

何かが僕を引き戻し

その何かを僕は探すけど

ふたたび抜けていく

色彩の中で

自販機の釣り銭受け取り口に 

そいつは

消えて

いった

 

 

 

 

 

穿って

 

いつかの酩酊の路上で 踏みつけられた自尊心が

コンクリートに頬ずりをして 僕は僕を思い出した

誰もが薄ら笑いを浮かべ 足を掬い合う浮世にて

先生はどこですか 誰が僕を正してくれるんだろう

 

生きてけないな 生きてけないぜ

虎視眈々と研ぎ澄ます 先鋭化したろくでなし哲学

愛を知らないからとか言った

誰かのために死ねない僕らは

抵抗虚しく 潔白剥奪 それでも明日は来ると知って

 

    太陽を目指して 焼け落ちた言葉で

    拒絶を拒絶して 救われてくれるな

    ただ君を殺すために 手段にされた言葉で

    意志だけを感じて 絆されてしまわぬように 

 

望郷と陽光の温みと 恒久的な幸福に

むず痒さを感じてしまったら

終わりなんだ 終わりなんだ

感傷がそこら中に散らばって

足の踏み場もない自室にて

神様はどこだっけ 誰が僕を救ってくれるんだろう

 

忘れてないか? 忘れてないぜ

人生の路頭にて叫ぶ 希望 諦観 綯い交ぜの賛歌

開き直ったら道になった 翻ったら今日があった

いっそ勇ましい 不浄の魂 もう昨日は戻らないと知って

 

    太陽を目指して 焼け落ちた言葉で

    肥大した期待に 生かされてくれるな

    ただ君を殺すために 手段にされた言葉で

    本心は秘匿して 図られてしまわぬように

 

 

君が信じるに値しない

そんな言葉で泣くべきじゃないな

僕が僕を生きるために 君が君を生きるために

守りたい人のために 悪人を殺せるか

迷ってしまう正しさが 僕らを締め付ける

それでも

穿って かつて押し殺した自分が 胸を叩いたなら

穿って 失ってはいけないもの 思い出すんだよ

 

    太陽を目指して 焼け落ちた言葉で

    自身を悲観して 頷いてくれるな

    ただ君を信じた 肯定の言葉に

    いつの日か報いて 今はまだ見えなくとも

    

    

        

 

センスと煩悩について

 

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だけど → だけれど にするだけで、一気に文筆感が増す。作文になる。音読になる。説教臭くなる。ツイ主というよりも筆者と言った方がしっくりくるようになる。それを書いたソイツが、文章を書く上でどれだけセンスがあると思われたいかが分かる。

会話の中で だけれど を持ってくる人もいるけど、正直少し胡散臭い。別に大した意図はないだろうけど。別に苦手にもならないけど。

 

僕は、俺は、私は、ワイは会話の中ではできるだけフランクでありたいと思っている。普段ツイッターやブログでは訳の分からないことばかり言っているので、実際に話してみたら意外と普通だ、的な人間味を残したいというセルフブランディングでもある。

いや、プロセスが逆だ。普段は普通なのに、SNSを覗いてみたらよく分からないことを言っている、というミステリアスさを出したいの方が正しいかもしれない。

いずれにせよそういったセンスありたい煩悩のせいで自分の見え方ばかりを気にしてしまっているのが俺の悪いところである。

実際に今も、俯瞰的に自己を分析できている感を出したい煩悩でこの文章を書いているし、この発言すらも、それに言及することによってさらに上のレベルにいきたい煩悩で書いている。そしてこの発言も...といった具合に俺の煩悩は無限に張り巡らされている。

 

そして残念ながら、ワイのセンスには1ミリも努力が伴っていない。ウチは本当に努力と呼べるような努力が出来ない悲しい人間らしい。ウケる。

つまり、あたいのセンスは全て小手先のものであり、玄人に査定されようものなら一瞬で看破されてしまう。そんな付け焼き刃のみでワシはここまで生きてきてしまったのじゃ。

 

最近そんなことばかり考えていたら、自分が本当は何が好きで何が嫌いなのかが分からなくなってしまった。本当に好きだと思っているものも、本当に嫌いだと思っていたものも、実際には自分のファッションの様にしか考えていなくて、何が好きで何が嫌いであればセンスがいいのか、が常に念頭にあるように感じる。本当は何も好きじゃないし何も嫌いではないのではないか。時折そんな不安に駆られる。

 

人間関係もそう。誰といて楽しいとか嬉しいとかじゃなく、誰といるべきか、どのような人と関わるべきかを常に考えてしまっているような気がする。それが悪いこと、とは言いきれないけど凄く悲しい行為だ。俺は故意的にそんなことをしているつもりはないけど、無意識的にはどうか分からない。もちろん全部が全部そうではないけど、心当たりがないともいえない。今は違くても、はじめはそうだった関係もあるかもしれない。まあそれは別にいいか。

 

人に優しくするのも、そうした方がいいから。

人の悪口を言わないのも、悪口を言うような人として見られたくないから。

優しい人のようで、結局俺は他者の気持ちなんて全く考えていない。自分のことだけ。

色々考えるけど、結局は自分のことだけ。

色々言うけど、結局は自分のことだけ。

色々あったけど、結局は自分のことだけ。

結局は、自分のことだけ。

自分のために、ただ良い人を模倣しているだけに過ぎない。人からどう見られるか、それだけを気にしている。おためごかしの優しさ。良い人と思われたいという、煩悩。

人間なんてみんなそんなもんだと言われればそうかもしれないけど、俺はどこか諦めきれない。いつか本当の意味での優しさを掴むことが出来るだろうか。

 

俺はよく「死にたい」と口にするが、本当に死んでしまいたいと思ったことは1度もないと思う。死にたいと言ってしまえるほど憂鬱だ、と言う方が正しい。

俺は、皆は、死という概念をなにか説得力を増幅させるための手段として利用している節がある。

会話にも、詩にも、短歌にも。死の匂いをちらつかせることによって世界観を構築し、説得力をもたせている。

死は人間にとって1番身近で1番怖いものだから、手段として利用されたものだと分かっていたとしても、茶化す気にもならなければ無視することもできない。説得力を感じざるを得ない。ずるくて、卑怯で、最悪の手段だ。

小学校低学年の頃、母親と喧嘩した際に「俺なんか死んだ方がいいんでしょ」と言ってしまったことがある。本心はそんな風には思っていなかったが、死の雰囲気を纏うことで、今俺がどれだけ傷付いているのか知って欲しい、そんな魂胆での発言だった。

母には酷く叱責されたが、喧嘩はそこで終わり、その後母はどこか優しくなった。俺の思惑通りだった訳である。

今思い返せば、この時に俺はそんな卑怯な手段を覚えてしまったのだろう。

しかし、創作や生活において死が重要な役割を担っているというのもまた事実である。ずるくて卑怯だが、死の雰囲気が持つ儚さや美しさ、その説得力は何物にも代えがたい。実際に今後も俺は、そういった創作物を好んで読み、そういったテイストの詩を書くだろう。

だからこそ分からない。この感動が、情調が、承認が、正しいものなのか。

お前は断罪されるべきウホ。

ほら、断罪ゴリラはこう言っている。

 

 

 

 

シュノーケル

 

街頭に照らされた初雪に ざわついた心が

凍った用水路にひびをいれて水没

焦燥の重さの分だけ深く沈んでいった

落伍者のイヤフォンから 流れるポストロックは

夜空が蓋をした街に調和して窒息

ひとつの舞台を作り上げていた

 

常に淡白な四季に 向けるべき感情も知らず

常に無愛想な四季に 向けられた感情を

ただぼんやりと眺める そんな日々の空白で

いつか光を掴む そもそも光ってなんだ

 

僕らは止まらない列車に繋がれて

敷かれたレールの上を引き摺られ

あるいは轢き殺され 季節を目指した

くすぶる命に群がるハイエナの鼻歌

12月 東京に降り注ぐ八十億のアイロニー

来るべくして来た、人類最後の日

 

    愛が必要な世界で 愛を取り上げられ

    やがて 人類の白昼夢へ

    忌憚なき異端 迷える弾道弾 もう無理そうだ

    こんなにも広いのに こんなにも息苦しい

 

    夢が必要な世界で 夢を遠ざけられ

    そして 幸福の常套句へ

    末人共の足拍子 罹患的情熱 マジョリティ 酸欠

    こんなにも広いのに こんなにも息苦しい

    こんなにも広いのに こんなにも息苦しい

 

 

 

10月、焦燥。やがて逃走。

 

10月 焦燥 やがて逃走

過去も未来もないような

デジャヴみたいな10月が

廃ビルの屋上で 秋風に髪なびかせて 

僕に背を向け立っていた

 

10月 焦燥 やがて逃走

いつかの記憶の中で 影になった僕らは

互いの顔も見えない黄昏時に

創作みたいな室外機にもたれて

なにを語るのだろう なにを語るのだろう

 

10月 焦燥 やがて逃走

高速道路沿いのラブホテル

オレンジ色の街頭に照らされた悲しみの横顔

そこに真実がある気がして

もう少しで何か分かるような気がして

わけもなく窓を開けてはみたけれど 

 

10月 焦燥 やがて逃走

数時間前に京王線

人身事故を目撃した風に頬を撫でられ

途方も無い空に脅された僕は

少し腹が立って

ここに答えは無いな

なんてつぶやいた

矢豆 可可欠 (8首)

 

昨日から今何問目?を解くために数えてたのに出ないんですが

 

セリフのない友人Cに生まれても七面鳥を囲んで乾杯

 

満面の笑みで腹パン食らってるそれで時々血を吐くわたし

 

スプーンで味噌汁を飲んでいる時 (あの美術館の名前はQ)

 

インフルに罹った朝を看取ったら風の絨毯に乗り遅れたよ

 

ある時はイヌ、ある時は人殺し、二十の顔を持っている君

 

海が見える部屋で顕微鏡を覗くただそこにある海そこにある

 

ポエティックディストラクション 空が青く見えてそれが僕の致命傷