拝啓 2023年へ

 

 

今年はなにがあったかな。思い出そうとしてもよく思い出せない。これはべつに全てを忘れたというわけではない。思い出そうとするとその過程で頭に靄がかかって、白っぽくなってきて、般若心経になって文学になって信仰になってついには鳥になって飛んでいってしまう。俺の身体が機能不全を来たしているのか、正常な鬱病の症状なのか、来月には死ぬのかよく分からないけど、思い出せない。とくに上半期、なにも思い出せない。仕方がないので重い腰を上げて、眼球の隅にメモリー清掃員のおっさんが掃けた朧気な記憶を一枚ずつめくりあげてみると、たしか今年のはじめ、俺はめでたいことによく分からない大学にたまたま合格して、よく分からないまま親に大金を振り込ませ、よく分からない世迷言を下水溝みたいに垂れ流しながら、よく分かったふりをして大学に入学したようだった。

 

大学は楽しくなかった。でもべつにそれでよかった。端から楽しいだろうとは思っていなかったし、一定期間のモラトリアムと社会のレールに再び乗ることが出来たという安寧さえ手に入れば、あとはどうでもよかった。無気力大学生という言葉の、無気力こそ咀嚼したかった。つまり、今回こそは上手くやる必要があった。失敗は許されなかった。学内での孤立を恐れた俺は、ゼミの同級生に手当り次第声をかけ、当たり障りの無い言葉のラリーを繰り返し、健常者返答クイズの二択に正解し続け、全ての主義主張を喉元に押さえ込み、下らない陰口に同調して、グループでは一定の地位を得た。それでよかった。なんの価値もない大義のために自我を貫徹して、孤独に咽び泣くくらいなら、自分を殺してでもこうする方が良いに決まっていた。俺の人生の道は、切り開かれたかに思えた。

 

張り詰めていたなにかが切れる音がした。いや早すぎるだろ。外に出れなくなった。人に会えなくなった。電話に出れなくなった。立ち上がれなくなった。ずっと死にたかった。きっかけははっきりとしていた。ドイツ語の授業に五分程遅刻してしまったとき、先生にみんなの前で恥をかかされた。怒られたとか注意を受けたとかなら、なんの問題もなかった。その時は文字通り、恥をかかされ続けた。残りの八十五分間、ずっと。頭がくらくらした。目の前が真っ白になった。手汗が止まらなかった。口角が無意識に上がったり下がったりしているような感覚になって、それと連動してあらゆる臓器が上下に揺れているような気分だった。その授業には友達が誰もいなかったのも、良くなかった。まわりの生徒の多くは困惑していたが、一部の人間は嘲笑を手のひらで転がして見せた。「そこまでする必要ある...?」そんな声も聞こえた気がした。それでもその時は、遅刻した自分が悪いと思うことにして、ただ時間が過ぎるのを待った。重い足を引きずって出席した翌週の授業で、その先生に「君、よく来れたね」と言われた。ついになにかが終わった気がした。その後の記憶はない。人が怖くて仕方なくなった。しばらく外に出れなくなった。

 

なんであんな奴に妻子がいて、俺は未だにセックスすら出来ないんだよとか考えていた気がする。それくらいのことしか思い出せない。部屋は荒廃の一途を辿り、あらゆる意味で俺の生活は廃れた。ワンルームの一室でひもねす布団に横たわりスマホを操作するだけの終わっている人間が誕生した。結局、俺は俺だった。昔からなにも変わっていない。なんでこんなに弱いんだろう。なんでこんなに人と違うんだろう。まともになりたかったと一日中泣いていた。大切だと思っていた人すらも敵に見えてきて、傷付けるような言葉も投げた。ただずっと消えたかった。親に申し訳なかった。後悔と未来の押し相撲を傍目に、俺はインスタント麺を啜り続けた。

 

運が良かった。音楽や文学、ゲーム、YouTube、友人や家族、あらゆるものたちのおかげで、なんとか生き延び、再び学校へ通うことに成功した。なにか特別な出来事があったわけではない。もう全てがどうでもよかった。これでダメなら死んでやる。そんな一歩だった。依然、人が怖いことに変わりはなかったから、行きたくない授業は全部行くのをやめた。そのせいで、いくつか単位を落としてしまったけど、以前と比べると幾分か生活が安定して、ほんの少しだけ光が差した。

 

他人なんてクソだ。俺は結局、俺の為にしか生きられない。俺が望む方へしか歩けない。社会も常識も普通も当たり前も金も世論も全部クソくらえ。俺は俺が見たいもののために行くし、行くために作り続ける。どうでもいい奴は、どうでもいい奴でしかなかった。だからこそ、大切な人やものを見失いたくない。さっさと世界終われよ。こっちはいつ終わってもいいように生きてんだよ。もう誰の言うことも聞かないし、やれと言われたことは一つもやらねえよ。くたばれ。