コンフュージョン

 

俗物にはなるものかと 足掻いてあけぼの

読みかけの太宰治 温みと時価総額の隙間

死に損ない専用車両 退廃的アフォリズム

デスクトップ マウスカーソルが決める未来

電子掲示板 中止のライブ 雨天決行 

無観客試合 サブスク インプレッション

 

     混迷と隣人愛 エントロピー増大

     我ら未だ知り得ない 自由意志の所在

     言葉 言葉 言葉 ここは 横殴りに目眩

     明日は何が見たい 問い続けて 問い続けて

 

病院の駐車場に捨てられた 夜空の吸殻 溜息の根源

深夜コンビニエンス いつもの店員 厭世的徘徊

情熱の死後七十年 期限切れの思考に蝿が止まって

祭りの仮設トイレに宿る精霊 デカダンス

他校のサッカー部 マスゲーム 基本プレイ無料

生乾きの信念に焚きつけた ロマン派 放火魔

 

     混迷と隣人愛 エントロピー増大

     我ら未だ知り得ない 自由意志の所在

     言葉 言葉 言葉 ここは 横殴りに目眩

     明日は何が見たい 問い続けて 問い続けて

 

火に照らされる 君を見て思った

いつか夢で僕と 世界から逃げよう

僕らが変えるはずだったもの 今もただそこにある

夜空仰げば 星屑に脅されて 

儚いからこそ記憶に焼き付く 真相は疾うに闇の中

何かのために 世界と刺し違えたい 

 

     混迷と隣人愛 エントロピー増大

     我ら未だ知り得ない 自由意志の所在

     言葉 言葉 言葉 ここは 横殴りに目眩

     明日は何が見たい 問い続けて 問い続けて

 

追憶

 

人生何度目かの この感覚

以前のことなど 覚えていない

憂鬱に不釣り合いな 生ぬるい風

桜散る河原に 誰かの生霊

 

どうやら行かねば ならないらしい

団地の生活感に 急かされる僕は

足早に向かう どこかへ向かう

どこへ向かう さようなら 思い出

 

別れは追憶 

別れはタイムマシン

別れは過去 

別れは出会い

 

出会いは追憶

出会いはタイムマシン

出会いは過去

出会いは別れ 

 

公園のブランコが 揺れる度に

思い出す情景は 誰かの記憶だ

そんな曖昧なものに 傷付くことは

決して弱さではないと むしろ強さであると

君の頭上を掠めた花びらが そう言っている

君の頭上を掠めた花びらが そう言っている

 

 

 

 

 

 

 

 

鯛獲る!←タイトル

俺は暇になるとすぐ鬱病が悪化するし、鬱病が悪化するとすぐにポエムを書く。

斯くしてこのきもいブログは着々とそのキモさを増している。

残念ながら全てのポエマーは鬱病の暇人であり、「空っぽな奴ほど詩を書きたがる」という言葉もまた疑いようのない事実である。

そうに違いない。いや、そうであってほしい。

そうじゃないと俺が一人ぼっちになってしまう。

孤独になれない僕らの弱さが、僕らを文学へと掻き立てる。結果、世界中に乱立するキモポエム。エセ文学。

満たされてるような奴は文学になんか傾倒しない。

何も無いやつが縋るのが文学。

才能も勉強も練習もいらない。芸術だと言い切れば芸術。文学だと言い切れば文学。

無能が手頃に自己顕示欲を満たすには丁度いいのだ。

無論、世間から認められるには一定の正当性や才能が必要だ。

しかし文学は、誰にも見られなくても、誰にも認められなくても、「何かを残した」というだけで、人間として最も高尚であり快感でありオナニーである実感を得ることが出来る。

これは創作全般にも当てはまる。

何かを始めなければ。何かを残さなければ。そうじゃなければ、死んでんのと同じだ。

 

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セックスがしたくて始めたこの人生も、気付けばどんどんセックスから遠ざかっていった。

こんなキモいことを言うのにも躊躇いが無くなってしまって、人として終わったと思う。

冗談のつもりで真っ黒にしたTwitterアイコンが、実際しっくり来てしまったなどと口が裂けても言えない。

 

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「人が本当の意味で満たされることなど絶対にないよな」

床の冷たさと友人のいびきの中、僕の浅い睡眠を終わらせたのはタケシのその一言だった。

「んぁ?何か言った?」

半分寝ぼけた状態で聞き返す僕にタケシは少し驚いた様子だった。

「なんだ、起きてたのか?」

いや、今起きたんだと笑って僕は体を起こす。

「さっき、なんか言った?」

僕はもう一度聞き返す。

「いや、なんでもない。そんなことより見てみろよヨシキの顔。ニヤニヤしながら寝てやがるぜ。きもちわりー。」

そう言ってタケシはセブンスターに火をつける。

周りを見渡すと、固い床に丸くなり大きないびきをかいて眠るサトシと、ソファーを一人で陣取り、偉そうに足を組みながら眠るヨシキがいた。

「はは。人の事は言えないけどさ、よくこんなくさい部屋で気持ちよさそうに眠れるよね。」

「それな」

1本いい?とタケシに断り、僕も机の上のセブンスターに手を伸ばす。

タケシが無言で頷くのを確認してからタバコを咥え、そこからしばらくはお互いに沈黙が続いた。

どこか心地よい沈黙の中で、さっき聞こえないふりをしたタケシの言葉の意味を考える。

人が本当の意味で満たされることなど絶対にない。たしかにな。そうかもしれない。

まだ酔いが覚めきっていない僕にとって、この言葉はどこか真理のように思えた。 

それと同時に、何故だかどうしようもなく悲しい気持ちになった。

タケシは何を考えているのだろう。僕らは何故生きているのだろう。そんな幼稚な哲学が頭を巡る。生まれてからこれまで何度も感じてきたこの感情が酒と煙草が入り交じった独特な部屋の匂いで増幅されて、実存的危機を引き起こすような気さえした。

喜びと隣合わせの悲しさ。馬鹿騒ぎと背中合わせの侘しさ。そんな言葉にならない実感を、タケシも同じように感じているんだと思った。

どれくらい時間が経っただろうか。

「でも満たされていないってのは幸せなのかも」

僕の呟きが沈黙を破る。

「なんだよ。聞こえてたのかよ。」

タケシは少し恥ずかしそうに目を丸くしながら、そうかもな、と呟くと頭をソファーの端に預け天井を見上げた。

何故かじっとして居られなくなった僕は、急に立ち上がると机の上のシーバスリーガルを一気に飲み干し、驚いた顔のタケシに言った。

「起きたらさ、ラーメン行こうぜ」

 

僕が目を覚ました頃、僕以外の3人はどこのラーメン屋に行くべきかを話し合っていた。

「俺は"カチヤ"がいいな。あそこのチャーシュー丼、値段の割にデカくてウマいんだよ。」

「"ショウヤ"ね。たしかにあそこもいいけど、ちょっと清潔感に欠けるんだよな。僕は黒磯商店に行ったらいいと思うけど。」

「黒磯商店はなぁ。いいけど、もう飽きたよなぁ。」

あーでもないこーでもないと話し合う3人を傍目に、

「僕はどこでもいいからさ、決まったら起こしてよ」

と言って僕はまた毛布にくるまった。

 

三度寝の後、無理やり叩き起された僕は目も開かぬまま顔を洗い、着替え、家を出た。

履き潰したスニーカーのかかとを直すこともせずに少し先に出た3人の後を追う。

友人といつものラーメン屋で飯を食い、友人の家で酒を飲み、友人の家で眠る。

何はなくとも生きていくのだ。

昨晩の葛藤が嘘のように、毎日はやってくる。

そして僕らも、白々しく毎日を生きていく。

蝉時雨が焼き付けたひと夏の記憶は、いつか僕のことを痛いほど刺すだろう。 

そんな覚悟をするにはまだ若すぎる夏が、今年もまた過ぎようとしていた。

 

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季節外れもいいところだ。

季節なんて決めもせずに適当に書き始めたものだから、最後の最後で無理やり夏ってことにした。夏ってだけでエモい。こういうギャル感覚、大事にしたい。でも冬もエモい。春もエモい。秋もエモい。春夏秋冬エモ。そもそもエモいってなんだ?

昨日、7年くらいネットで仲良かった女の子のLINEをブロックした。

全然嫌いなわけじゃないんだよ。でも俺が寂しい時だけLINEするから、なんか迷惑な気がして、今はそうじゃなくてもいずれ迷惑をかける気がして泣きながらブロックした。

その子の今のTwitterのアカウントは知らないけど、このブログ読んでないといいな。恥ずかしいし。

女の子に迷惑をかけないために、男はオナニーをすべきだ。性欲が溜まって変なLINEを送る前に、オナニーをすべきだ。真の紳士とは、オナニーを常に欠かさない男、裏を返せばド変態野郎なんだ。

最近は本当に生活が出来ていなくて、もう何が何だか分からない。kindleで変なエロ漫画を買った。セックス見すぎて余計に鬱が悪化した。パスタを巻く気力もなくて啜ってた。和風パスタって聞いて、わっふー!って思った。それだけ。

 

 

 

いつかこの詩を攫う風

 

初冬の風が撫でるコンビニの駐車場 投げ捨てられた缶ビール

僕が視線を落とす訳は 未だ自身も知らない

「こんなはずじゃなかった」って どの面下げて言ってんだ

赤信号に苛立ち 今日も世界に舌打ち


絶対的な星空 僕が抱いてる気まずさ

相対的な僕らは「死にたい」って言葉の奴隷だ

自分見失うには 十分すぎる程の時間

まるで自分対世界 そんな様相で

 

僕は僕であると いつか言えるのならば

それだけの存在 博打の生存だった

夜が真実を 隠している気がしたのだ

自販機の釣り銭に 精肉店のシャッターに

死んでくれるな、いつかこの詩を攫う風

 

記憶の中のカーラジオは 雨音で掻き消されて

時折微睡みの中 そんな夢をみていた

フラッシュバックした幻聴で 名前も知らない虫が鳴いて

影はいつだって饒舌 西風が絶やす情熱

 

人に認められたくて 全てを否定して

優しい人になりたくて 優しい人を嫌った

手を差し伸べてくれた 人すら廃忘して

まるで被害者みたいな そんな逃走で

 

僕は僕であると いつか言えるのならば

それだけの存在 博打の生存だった

朝日が偽りを 暴く気がしたのだ

新聞の配達員に 病院の待合室に

死んでくれるな、いつかこの詩を攫う風

 

「頑張れ」なんて言えないよ

かけるべき言葉なんて一つもないよ

だけど何も言わないなんて

卑怯じゃないか 卑怯じゃないか

 

君は君であると いつか言えるのならば

それだけでいいよ それ以外何もいらないよ

こんな日々に 終わりが来た時

ただ風の匂い 嗅いでいたいだけ

生き延びるべきだ、いつかこの詩を攫う風

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平和じゃないのが文学だ

 

幾度目かの微睡みの後に

ふと目を覚ました午前二時

煌々と照らす電灯 唸るパソコン 乾いた喉

言い知れぬ不快感 

平和じゃないのが文学だ

 

寝ぼけまなこで目を擦り

ネットニュースにテレビに新聞に

人の生き死に憂慮して

冷めたコーヒー啜ってる

平和じゃないから文学だ

 

彼女にとって文学とは逃避行だ

僕にとって文学とはなんだ

季節に引き摺られる不安と焦り

決死にしがみつこうとコンクリートに立てる爪

散る火花 音がうるさくて眠れやしない

 

文学とは カーテンの隙間から漏れる陽光であり

文学とは 戦争であり

文学とは 逃避であり

文学とは 自殺であり

文学とは 生存である

文学とは

 

観念的死から始まり

物理的な死で終わる

終わりと終わりの狭間で

繰り返される自問自答

秒針の音がやけにうるさい今夜

少年は自身の情緒と向き合う

窓から身を投げる数秒前

言葉になにが出来るだろうか

知る由もない 知る由もない

 

平和じゃないのが文学だ

 

 

 

 

 

 

 

2月

 

大抵、こういった月(month)をタイトルにするタイプのブログというものは月初に書かれるイメージがあるんだけど、今回は些細な反骨精神を尊重して2月も終盤の24日にこのタイトルでブログを書く。

2月、あっという間だった。よく、「2月はあっという間だよね~」という人がいるけど、そんなのあんまり信じてなかった。いうても他の月より3日とか2日とか少ないだけでなにを言ってんだよとか思ってた。けど実際あっという間だ。これは別に日数の問題とかじゃないのかもしれない。もっと、根本的に生命に訴えかけてくるあっという間。なんだそれ。

前年度を無為に過ごしたという自覚があるからこそ、今年こそはと何かと気合いを入れて臨む1月2月。何も変わらない焦りと苛立ちが生む、感覚的なあっという間。

多分この先、3月も4月も5月も6月もあっという間だったとか言って終えていくんだろうな。

1年間あっという間だった。って。

これは殊更取り立てるまでもなく当然の感覚だけど、時の流れに絶望したり季節に引きずられながら死ぬまでの時間を指折り数えるような生活をいつか脱したいと思った。無理だろうけど。

 

このブログ、 かなりなんでもアリになってるけど、それがいい。Twitterじゃ言葉足らずになるような事でも、ひとまず自分の満足いく形で吐き出せる。そしてそれが許される。だってブログだもの。心地いい。

どうでもいい所感とか誰かと共有したいこととか詩とか短歌とかそのどちらとも言えないものとか。誰も読んでなくてもよくて、誰でも読める場所にそういったものを公開したいだけの欲って誰にでもあるよね。(あるよね?)

それも適当に。誤字脱字誤用駄文なんでもこい。

 

最近、短歌の本を買ってみた。

電子書籍にしようかとも思ったけど、やめた。再三言われている通り、やっぱり紙の本の良さってあるよね。とくに短歌とか詩集とかはその傾向がより強い気がする。

自分でも短歌を作ってみたりするんだけど、それも楽しい。とはいってもほんとに適当で、自分で短歌って言い張ってるだけでその道の人に見られたら怒られるようなものかもしれない。

でもいいよ。どうせ見てないし。

あと、人の詩とか短歌とかをよんだあとに自分で作ってみると、よんだものの影響を凄く受けるから恥ずかしい。気付かれないくらいまで薄ーくしてから発信したい。多分みんなそう。

でもこの影響を受けて真似してみるっていうのは大切だと思っていて、その真似から誰も見た事のない自己流に派生していくんだと思う。

 

 

実はTwitterとかじゃ公開してないけど、YouTubeに弾き語りcoverの動画を2年くらい前から投稿していたりする。色んな国の人からコメントを貰えたりして凄く嬉しい。

でも最近は、人様が作った歌を歌って得る自己肯定感ってどうなんだ?って思ってしまったりする。もちろん好きな歌だから歌うんだけど、やっぱり自分で曲を作るべきだとも思う。

歌詞はいいとしてもメロディとコード進行は作るの難しいな。ある程度勉強しないといけない。

 

最近の悩みはこんな感じで文章が箇条書きっぽくなってしまう事だ。下手くそなんだ。生きるのも書くのも。

そういえばよう実のアニメ2期が決まったみたいだな。楽しみだ。

新刊の発売日も明日だし。てか今日もうTSUTAYAに並んでるかな?買いに行こう。外に出よう。久々にラーメンも食いたいし。

昼間に日光浴びるのめちゃくちゃ大事。

鬱病は日光を舐めるなよ

 

 

最近のダジャレ発生プロセスとそれに対する悲観的思考。

 

毎日ダジャレ生活というタグを使い始めてからもうすぐ4年が経とうとしている。

お察しの通り僕はダジャレが好きだ。

そして突然のお知らせだが推敲するのが急にめんどくさくなったので以下の文章は一切の推敲なしで綴っていく。

最近自分のタイピングが遅いのを気にしているので練習を兼ねてPCから。あーほんとめんどくさい。

話を戻そう。戻総理大臣。

最近自分がダジャレを捻出する際のプロセスが昔と変わってきていると感じる。

ていうかもう捻出とか言ってる時点でそうなんだけど、最近はダジャレを言おうと思って、そして、うーんと考えて(とはいっても1、2分)そして言う。

自己目的化がうんたらかんたら。

タグの更新が目的になってる。自分勝手な話だけど、ダジャレにはバッタリ会いたい。

探したくない。ダジャレの出来とかどうでもよくて偶然出会うから面白い。ふと思いつくからこそ、ダジャレは生きている。最近の俺のダジャレは死んでいる。dead。

ぼーっとしてるときとかテレヴィ見てるときとかTwitter見てるときとか。そういう時にダジャレを思いついたり見つけた時のワクワク。それ最高。

そのワクワク抜きで、(大将!ダジャレ、ワクワク抜きで!)生産活動に成り下がったダジャレは、なんだ?きっと、怖い顔で作られているにちがいない。

てか、ここまで書いといてあれだけど、じっくり考えてダジャレを言うのもそれはそれで楽しい。すごく楽しい。頭の体操。思考活動。パズルを解いているような感覚。言いすぎか。そんな高尚なものではないけど、そんな感じ。

なんというかジャンルが違う。サッカーとバスケくらい違う。日本とアメリカくらい違う。人間とクジラくらい違う。地球とアンダマンデルゲルニルカ星くらい違う。

最近考えてダジャレ言ってばかりだったから、ふと出会うダジャレの快楽を味わいたいと思った。ダジャレは麻薬だ。ダジャレはオナニーだ。オナニーはダジャレだ。

ふと思いつくっていうのも、全く考えないで頭に浮かぶわけじゃない。

考えはするけど、その過程が全然違う。ゴールまでの階段を上る速度が異様に速い。

一筋の光芒がさしてそこに引き寄せられていく。上手く言えないけど、なんとなく分かると思う。これだっ!ていうダジャレは突然降りてくる。降りてくるって言い方なんか嫌だな。でも、これだっ!を探し出してしまうと全然会えない。いつも突然来る。出来ることといえば、どっしり構えて、全てを広く受けいれることくらい。ユーモアとは受け入れることなのかもしれない。結局、世の中に溢れる面白いことに自分が気付けるか。それだけのことなのだ。

話を敷衍して考えよう。

全ての面白いことに突然出会いたい。

面白いことを言おうと思わずに面白いことを言いたい。

とんでもないわがままを言っているようだけど、これはなにもみんなに面白いと思ってもらえる必要はない。自分だけが面白いと思えればそれでいい。そう考えるとハードルも少しは低く感じる。

人が面白いことをしているのをただ見ていればそれでいいのではないか?と思うかもしれない。お笑いとかYouTubeとかテレビとか。

まあたしかにそれも悪くない。でもそれと、自分で面白いことを言うのは全く違うことだ。創作、とまでは行かないけれど、生みだす喜び、快楽、というものは他人のユーモアをただ享受しているだけでは到底越えられない。

何を言っているんだ、と思うかもしれない。変なところでガチになっているのは正直恥ずかしい。もう一度言うが、自分が面白いと思っていればいい。他人にどう思われてもそれは全く問題にならない。(あるいは同じような感覚の人にだけ伝わればいいと思っている。ここでその感覚を、"わかっている人"と表現するのには抵抗がある。こういうのは分かる分からないではないのだ)

面白さを10点満点としよう。

なんか面白いことを言おう!考えよう!と思って捻出したそれは、どんなに頑張っても9点にしかならない。10点は、往々にして突然思いつく。もう思いついた瞬間からニヤニヤしてしまって、早く言いたくてしょうがない。

一体どうなってるのか分からないし何を言いたいのかも分からない。もうゴチャゴチャだ五目ごはんだ。二郎系ラーメンだ。

この話はこれくらいにしておこう。もうどうでも良くなった。

 

最近のダジャレに対する自分の認識で、変わった点がもうひとつある。これは別に良いとも悪いとも思わない。

自分の中でダジャレが、裏笑いから表笑いになったということだ。

もう少し簡単に言うと今までは、

「今更ダジャレに熱中しているのが逆に面白い」

という状態だったのが、今は、

「単にダジャレ自体の素の面白さに惹かれている」

になったということだ。

要するに一周まわってしまった。

でもこれはユーモアすごろくの振り出しに戻ったわけではない。限界突破したと考えている。

これが喜ばしいことなのかはさておき、インターネットにはこの限界突破してしまった人たちがたくさんいる。

二周も三周もしているであろう人たちがたくさんいる。

何言ってんのかよく分かんないけど多分この人面白いことを言ってるんだろうな。というのはこれの最たる例だろう。

そして僕はこの限界突破の行き着く先をなんとなく予見している。

それは、無だ。なんにも面白くないという状況だ。薄々気付いてる人もいるかもしれない。

歳を重ね、笑いのレベルが上がる(下がる?)につれて、どんどん色んなものがつまらなく感じてくる。そして人はそれを、大人になった。だの笑いのレベルが上がった。だの都合よく解釈する。

単にTwitterのユーモアに染まっただけなのに、一般のお笑いを馬鹿にしているのも同じだ。

でも、これは果たして進化なのだろうか。僕には退化な気がしてならない。

なんでも笑える方が、楽しいに決まっている。

楽しい方が、いい。

ユーモアとは全てを受け入れることだ。

これは自戒でもある。つまらない人間になっただけで上に立った気になっている自分への戒めだ。

どっしり構えて、面白さを見出すんだ。

結局探す方が面白いのか探さない方が面白いのか、先程の発言と矛盾しているかもしれない。

要はバランスが大切なのだ。僕はバランスという言葉が好きだ。世の中はバランスだ。バランスが全てだ。偏った思考はろくな事にならない。

さっきのダジャレの話がひとり遊びならば、今の話は他人が介入してくる。人との会話とか、そういうのを想定している。もちろん、考え方も変わってくる。

 

これは別につまらないことでも無理して笑え。という訳では無い。もちろん、大人になれば笑いの趣向が変わってくるのは当然だ。

変なプライドが邪魔する必要はない。プライドを取り除けば、今よりもう少しだけ世の中は面白いよ。と言いたい。

ダジャレが素直に面白いことも普通だし、今更ダジャレかよ!という笑いも普通だ。

全てのスタイルは受け入れられるべきであり、先入観で否定するのは勿体ないということだ。

なんだか俗っぽい結論になってしまったが、つまりはこういうことだ。

 

色々言ったが、人との会話を、ターン制の大喜利バトルにしてはいけない、と最近思う。

会話というのは相手を尊重して行うものだ。

相手の気持ちを考えよう。幼稚園でも習うことだ。

相手より面白いことをいう、相手を負かす。そんな会話じゃつまらない。(特別そういう状況なら話は別だが)

普通に話す中で、ふと思いついたことを言って、ニヤニヤする。それが面白い。

それも一方的に投げまくるのは得策じゃない。

相手の気持ちを考えよう!全ての問題はこの教訓に帰結する。

もう何が言いたかったのかよく分からないな。

ふと思い立っていきなり書き始めたはいいが、もうグチャグチャだ。グロ画像だ。グロ文だ。

まあでもそういう突然の衝動は大事にしよう。根拠はないけど。ブログってそれが許されると思う。Twitterとかも。

ていうか結局めんどくさくなって後半からスマホで書いてんの訳わかんないな。当初の目的とは