事故って死んだ

 

 

はじめに書いておくことにするが、この文章は詩でも無ければ歌詞でもない。

(因みに俺はこの2つを明確に区分している。それについてはまたいつか)

近況報告というか、所感というか、所信表明というか、長めのツイートというか、それを要するにブログと呼んでしまおう、というか、そんなものである。

俺の詩(あるいは歌詞)には、ある種の単なるポエミーな随筆として解釈され易いという特徴がある(というよりも、あえてそういった属性を付加しているという方が正しい)ので、それが翻って、この文章が詩(歌詞)として解釈されてしまうことを防ぐために、冒頭に書き記すことにする。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

最近、高校のときの同級生が死んだ。事故だった。

そいつとはもうしばらく会っていなかったから、未だに友人だ、というのは少し図々しいかもしれない。

でも、あの頃の俺たちは確かに友人同士であったし、特に親交の深かった時期に関しては、同じ屋根の下で寝食を共にしたことも幾度となくあった。

あいつが俺の事をどう思っていたのかは知らない。俺もあいつが特別良い奴だったとは思わない。

それでも、俺の半生における美しい瞬間の、確かな登場人物として記憶に残っていて、そして今後も残り続けることに間違いはない。

なんにせよ、あいつはもう帰ってこないし、話すことも出来ない。行き場の無い悲しみに襲われる。寂しいな。

 

顔を見に行くこともせず、通夜にも行かなかった。というよりも、行けなかった。それは、俺が今住んでいる場所と、地元との物理的な距離や予定の問題ではなく、俺の精神的な問題だった。

どう考えても不義理だし、薄情なことなのも分かっている。それでも、どんな気持ちで会いに行けばいいのか分からなかった。遺族にどんな言葉をかければいいのかも分からなかった。

訃報を聞くまで特に気にもとめず、存在すら忘れかけていた同級生の死が、ここまで心にくるものかと呻吟した。

それとも、自分と同じ歳の人間が、突然亡くなった事への衝撃と、命の儚さへの悲しみと、そんな世界の理不尽に、心を押しつぶされているだけ、という方が正しいのだろうか。それが、知り合いだったから尚更、というだけのことなのだろうか。

そう考えると、より一層自分の薄情さに嫌気が差した。その一方で、たかが数年仲が良かっただけの知り合いに、心を入れ込みすぎではないか?と考える冷静な自分もいた。

こんな思考の反復によって感情の出処を探ったところで、何の意味もないのに。

 

俺は、物質的にも、唯物的にも生きられない。

ときどき、自分の大切な人が死んでしまう瞬間を想像することがある。その度に泣く。そのときが来たら自分がどうなってしまうのか、考えることもできない。そんなことになるくらいなら、自分がいちばん最初に死にたいとか、身勝手なことを考えたりもする。

数年前は、毎晩そんなことを考えて泣いていた。その間は何も手につかなかった。解決法はひとつ、それらのことから目を背けて眠る。それだけだった。睡眠の効果は絶大で、朝になったらすっかり忘れることが出来た。それでも夜になれば、シャンプーの匂いがそれらを誘い出して、またひとりで泣いた。

 

本質的には今も変わってない。俺は未だに「大切な人を失う恐怖」を克服出来ていない。そしてそれはこれからも、たぶんできない。

もちろん、大切な人を失って平気な人などいない。それは分かってる。それでも人々はどうにか立ち直り、また生きていく。いや、そう見えるだけかもしれない。実際のところは、立ち直れてなんかいなくて、ただ、季節に引きずられるように、前に進まされているだけかもしれない。元気そうに見えても、心のどこかでは、一生、何かが翳り続けるのかもしれない。分からない。ほんとうのことは何も。

でも、いつか必ず知ることになる。それは、避けられない。どんなに清く生きようが、世界が平和だろうが、金を稼ごうが、無事故だろうが無病だろうが。いつかは必ず知ることになる。人は、死ぬ。

だからこそ、その瞬間が、出来るだけ遠ければいいと思う。その瞬間まで、ずっと幸せならいいと思う。その瞬間を、満を持して迎えたいと思う。少なくとも、俺の大切な人には、そうであって欲しいと願う。

 

友人の死を契機にして、こんなことを考えるなんて、なんというか、甚だ自分勝手だとは思うけど、まあ、そんなもんか。

あいつとの最後の会話はなんだったかな。家のベランダで、俺があいつから煙草を一本貰って、それが俺の人生で初めての煙草で、全然美味しくなくて、すげぇ咳き込んじゃって。あいつ笑ってたな。まわりの奴らも笑ってた。