毎日ダジャレ生活というタグを使い始めてからもうすぐ4年が経とうとしている。
お察しの通り僕はダジャレが好きだ。
そして突然のお知らせだが推敲するのが急にめんどくさくなったので以下の文章は一切の推敲なしで綴っていく。
最近自分のタイピングが遅いのを気にしているので練習を兼ねてPCから。あーほんとめんどくさい。
話を戻そう。戻総理大臣。
最近自分がダジャレを捻出する際のプロセスが昔と変わってきていると感じる。
ていうかもう捻出とか言ってる時点でそうなんだけど、最近はダジャレを言おうと思って、そして、うーんと考えて(とはいっても1、2分)そして言う。
自己目的化がうんたらかんたら。
タグの更新が目的になってる。自分勝手な話だけど、ダジャレにはバッタリ会いたい。
探したくない。ダジャレの出来とかどうでもよくて偶然出会うから面白い。ふと思いつくからこそ、ダジャレは生きている。最近の俺のダジャレは死んでいる。dead。
ぼーっとしてるときとかテレヴィ見てるときとかTwitter見てるときとか。そういう時にダジャレを思いついたり見つけた時のワクワク。それ最高。
そのワクワク抜きで、(大将!ダジャレ、ワクワク抜きで!)生産活動に成り下がったダジャレは、なんだ?きっと、怖い顔で作られているにちがいない。
てか、ここまで書いといてあれだけど、じっくり考えてダジャレを言うのもそれはそれで楽しい。すごく楽しい。頭の体操。思考活動。パズルを解いているような感覚。言いすぎか。そんな高尚なものではないけど、そんな感じ。
なんというかジャンルが違う。サッカーとバスケくらい違う。日本とアメリカくらい違う。人間とクジラくらい違う。地球とアンダマンデルゲルニルカ星くらい違う。
最近考えてダジャレ言ってばかりだったから、ふと出会うダジャレの快楽を味わいたいと思った。ダジャレは麻薬だ。ダジャレはオナニーだ。オナニーはダジャレだ。
ふと思いつくっていうのも、全く考えないで頭に浮かぶわけじゃない。
考えはするけど、その過程が全然違う。ゴールまでの階段を上る速度が異様に速い。
一筋の光芒がさしてそこに引き寄せられていく。上手く言えないけど、なんとなく分かると思う。これだっ!ていうダジャレは突然降りてくる。降りてくるって言い方なんか嫌だな。でも、これだっ!を探し出してしまうと全然会えない。いつも突然来る。出来ることといえば、どっしり構えて、全てを広く受けいれることくらい。ユーモアとは受け入れることなのかもしれない。結局、世の中に溢れる面白いことに自分が気付けるか。それだけのことなのだ。
話を敷衍して考えよう。
全ての面白いことに突然出会いたい。
面白いことを言おうと思わずに面白いことを言いたい。
とんでもないわがままを言っているようだけど、これはなにもみんなに面白いと思ってもらえる必要はない。自分だけが面白いと思えればそれでいい。そう考えるとハードルも少しは低く感じる。
人が面白いことをしているのをただ見ていればそれでいいのではないか?と思うかもしれない。お笑いとかYouTubeとかテレビとか。
まあたしかにそれも悪くない。でもそれと、自分で面白いことを言うのは全く違うことだ。創作、とまでは行かないけれど、生みだす喜び、快楽、というものは他人のユーモアをただ享受しているだけでは到底越えられない。
何を言っているんだ、と思うかもしれない。変なところでガチになっているのは正直恥ずかしい。もう一度言うが、自分が面白いと思っていればいい。他人にどう思われてもそれは全く問題にならない。(あるいは同じような感覚の人にだけ伝わればいいと思っている。ここでその感覚を、"わかっている人"と表現するのには抵抗がある。こういうのは分かる分からないではないのだ)
面白さを10点満点としよう。
なんか面白いことを言おう!考えよう!と思って捻出したそれは、どんなに頑張っても9点にしかならない。10点は、往々にして突然思いつく。もう思いついた瞬間からニヤニヤしてしまって、早く言いたくてしょうがない。
一体どうなってるのか分からないし何を言いたいのかも分からない。もうゴチャゴチャだ五目ごはんだ。二郎系ラーメンだ。
この話はこれくらいにしておこう。もうどうでも良くなった。
最近のダジャレに対する自分の認識で、変わった点がもうひとつある。これは別に良いとも悪いとも思わない。
自分の中でダジャレが、裏笑いから表笑いになったということだ。
もう少し簡単に言うと今までは、
「今更ダジャレに熱中しているのが逆に面白い」
という状態だったのが、今は、
「単にダジャレ自体の素の面白さに惹かれている」
になったということだ。
要するに一周まわってしまった。
でもこれはユーモアすごろくの振り出しに戻ったわけではない。限界突破したと考えている。
これが喜ばしいことなのかはさておき、インターネットにはこの限界突破してしまった人たちがたくさんいる。
二周も三周もしているであろう人たちがたくさんいる。
何言ってんのかよく分かんないけど多分この人面白いことを言ってるんだろうな。というのはこれの最たる例だろう。
そして僕はこの限界突破の行き着く先をなんとなく予見している。
それは、無だ。なんにも面白くないという状況だ。薄々気付いてる人もいるかもしれない。
歳を重ね、笑いのレベルが上がる(下がる?)につれて、どんどん色んなものがつまらなく感じてくる。そして人はそれを、大人になった。だの笑いのレベルが上がった。だの都合よく解釈する。
単にTwitterのユーモアに染まっただけなのに、一般のお笑いを馬鹿にしているのも同じだ。
でも、これは果たして進化なのだろうか。僕には退化な気がしてならない。
なんでも笑える方が、楽しいに決まっている。
楽しい方が、いい。
ユーモアとは全てを受け入れることだ。
これは自戒でもある。つまらない人間になっただけで上に立った気になっている自分への戒めだ。
どっしり構えて、面白さを見出すんだ。
結局探す方が面白いのか探さない方が面白いのか、先程の発言と矛盾しているかもしれない。
要はバランスが大切なのだ。僕はバランスという言葉が好きだ。世の中はバランスだ。バランスが全てだ。偏った思考はろくな事にならない。
さっきのダジャレの話がひとり遊びならば、今の話は他人が介入してくる。人との会話とか、そういうのを想定している。もちろん、考え方も変わってくる。
これは別につまらないことでも無理して笑え。という訳では無い。もちろん、大人になれば笑いの趣向が変わってくるのは当然だ。
変なプライドが邪魔する必要はない。プライドを取り除けば、今よりもう少しだけ世の中は面白いよ。と言いたい。
ダジャレが素直に面白いことも普通だし、今更ダジャレかよ!という笑いも普通だ。
全てのスタイルは受け入れられるべきであり、先入観で否定するのは勿体ないということだ。
なんだか俗っぽい結論になってしまったが、つまりはこういうことだ。
色々言ったが、人との会話を、ターン制の大喜利バトルにしてはいけない、と最近思う。
会話というのは相手を尊重して行うものだ。
相手の気持ちを考えよう。幼稚園でも習うことだ。
相手より面白いことをいう、相手を負かす。そんな会話じゃつまらない。(特別そういう状況なら話は別だが)
普通に話す中で、ふと思いついたことを言って、ニヤニヤする。それが面白い。
それも一方的に投げまくるのは得策じゃない。
相手の気持ちを考えよう!全ての問題はこの教訓に帰結する。
もう何が言いたかったのかよく分からないな。
ふと思い立っていきなり書き始めたはいいが、もうグチャグチャだ。グロ画像だ。グロ文だ。
まあでもそういう突然の衝動は大事にしよう。根拠はないけど。ブログってそれが許されると思う。Twitterとかも。
ていうか結局めんどくさくなって後半からスマホで書いてんの訳わかんないな。当初の目的とは